天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

祈りの話し(1)

イメージ 1

                             (夜の堀川通り)

以前特殊な形で教会生活を送っていると書きましたが、

自分でもそれを自覚していて、結構(霊的にも)危険な生活をしているよなあと思います。

まるで修道院、いや仙人のような生活か。

もちろん外貨を稼ぐために社会生活はしていますけれども。

こんなんでいいのでしょうか?と神様にお聞きしますが、

今の所これといった答えはなく、スルーされて(?)います。

自分は人間の中でも最も弱く、神様がいて下さらないと、

大した存在意義もなく、人に踏みつけられ足蹴にされるような

人間だと自認しているので、いきおい神様に頼る回数も多くなってきます。

法主義者のような人間が多くいる日本に住んでいること、

京都という因習と偶像に満ちた土地にいること、

もうこれだけで砂漠の中にいて、今にも干からびていきそうな状況です。

挙句の果て、加齢による体調不良も顕著になってきております。

なので毎日バスの中でのお祈りに必死です。

「祈りって大事だよネー」

とのん気に言っている場合じゃありません。

2週間前にもやはりのっぴきならない、神経的な不調を感じて、

帰りのバスの中でダダダダとすごい勢いで、誰でもない

神様その人にメールを打っていました。

これが自分の祈りの代わりなのです。

頭で考えて祈ろうとすると、どうも気が散ってしまうのです。

自分の体質のこと、感じている苦しみのこと、

救って下さるのは神様しかいないこと、自分の人生は苦しみの連続であること、

この人生が短くあることを願うこと、そして最後に

「私を癒して下さい、そうでなければ私の命をお取りください。」

と書きました。嘆きの壁を叩きつけているユダヤ人みたい。

自分の場合、神様宛てのメールは必ず最後に

イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。」

として終わらせることにしています。

しかし、この時は「私の命をお取りください。」で終わっていました。

なぜなら、ここまで書いた瞬間ふっと正気に返ったからです。

気づくと日常の静かな何でもない風景がそこに広がっていました。

「アレ・・・?」

私のさっきまで感じていた苦しみは何だったんだ?

そもそも本当にそれを感じていたのか・・・?

まるで狐につままれた気分でした。

でも確かに保存メールの中に、切々と神に訴える証拠が残っています。

これは癒しと言えるのでしょうか。あまりにも自然で境い目もなく、

ピカーと上から光が降り注いだわけでもなく、何かの印があったわけでもなく。

「神様、あなたがこの叫びを聞いて下さったのですか・・・?」

「いや、あのメール アーメンまで書かなかったし。

悪い霊も癒すことできるしなぁ・・・ブツブツ」

などと考えながら家に帰りました。

祈りにまつわるお話その2。

例のごとく母が私の所に滞在しており、京都でも教会で日曜礼拝に出たいといって、

自分の出身教団(聖霊派)の京都教会に行って来たそうです。

この前の日曜日のことです。

母親も芸術家気質?で教会生活を自由に考えるボヘミアンなのですが、

自分と同じ自由過ぎてその身に災いを招くタイプかもしれません。

やはり霊的な渇きを覚えていたらしく、ずっと心の中で「手を置いて祈ってほしい」

と願っていたそうです。

眠くなってきたので続きは明日。

(つづく)