(雨の北野天満宮)
ついに出ました。
何が出たか。
教会を出ました。
我ながらlostsheepとはよく名付けたものだ。
こうなることは教会に行き始めてすぐに予想されました。
「ここには長くいるまい。どこか別の場所に行くことになるだろう。」
結論から言えば、聖書と日本フォーラムの事務局のお手伝いをすることになり、
行っていた教会と掛け持ちすることが難しくなって、一本に絞らなければならないという状況になり、
それを牧師先生に打ち明けて、京都に来てからお世話になっていた教会を去らせて頂いたのです。
先々週の雨の土曜日のことでした。
表面上は上に書いたような理由だったのですが、本当のところその教会に
神様の霊が感じられなかったというか、神様の霊が薄過ぎたというか、
そこにいたら窒息しそうになるので、おかしくなる前に脱出したというのが真の理由かもしれません。
現にそこの信者さん達は自分の目から見て、誰も彼も病んでいました。
こんなこと大きな声で言えませんが、別なグループとの関わりができて、
以前行っていた教会を去ることになった時、牧師にその理由をこちらが言うか言わないかの段階で、
「私が変なことをやっているなら他の牧師達から何か言われるだろう。でもそんなこと誰も言って来てはいない!」
と、そんなこと聞いてもいないのに一方的に自分の正当性を強く主張し、
こちらに喋らせる隙を与えてくれませんでした。
きっと自分がしていることに対し、心の奥底で何かやましい気持ちがあったに違いありません。
私は一方的に言い分を聞かされ、それでその面談の後すっかり具合が悪くなって、
家に帰って寝込んでしまったということがありました。
なので、今回も牧師が激高することをあらかじめ予想し、
神様にご加護を祈ってから教会に向かいました。
予想に反して先生は紳士に対応して下さり、こちらの言い分もちゃんと聞いて下さいました。
先生は自分が教会の囲いの中から外れて、宙ぶらりんになることを懸念されていました。
また、私がやっている活動に自分の所の信者さんを引き込まないでほしいとも言われました。
どちらも人間の目から見ればもっともな意見でした。
私は先生から見れば不忠実な信者で、あっちフラフラこっちフラフラしている者に過ぎないと思います。
でも今回自分の祈りに対する神様の答えは、フォーラムの方に行きなさいとの示しであったので、
神様がそちらの方に導いて下さっているとの思いが(半分嫌なんですが)強くありました。
先生の熟練された大人な対応が見事で、以前自分が経験した牧師の対応と全く違っていたので、
神様に感謝しました。しかし、先生は信者さん達が霊的に病んでいるということが、
全く分かっていないようでした。
私の目からは、信者さん達はまるで導く者がいなく、どちらの方向に進んで行って
よいのか分からず、ひたすら右往左往しているように見えました。
まさかこんなこと青二才の私からは言えません。
先生のお説教は理路整然として無駄がなく、一見堅実なように見えるのですけれども。
河勝会長は「そういう所にいても魂の成長が停滞してしまう。」と言っていましたが、
自分としても全くそれに同意なので、今回良い区切りの時が到来したと考え、
意を決して1年ちょっとお世話になった教会を去ることにしました。
イエス様は「人の子には枕する所がない」と言われましたが、自分もいつもそのような気分です。
こうしてまた見知らぬ土地で、神様と自分だけで向き合う日々が始まるんだなあと
振り出しに戻った気分です。