正確に言うと、その客員牧師から受けた印象は、
根はそんなに悪い人ではないけれど、悪いものが表面に取り憑いているといった感じでした。
その人の瞳を見ると、なんとなく魂の状態まで見えてくるような気がするのですが、
(こういうことをするのはあまり良くないのですけれども)
その客員牧師の瞳からは、彼を表面的にコントロールしているものがいて、
彼の目を曇らせてしまっている、みたいなものを感じました。
礼拝中その牧師の様子を観察していると、
「我はー主なり!我はー主なり!」
と繰り返す中で、声のトーンが不気味に切り替わる瞬間があったことに気づきました。
それからはどんどん牧師も皆も、我を忘れた状態になって、ワアワア騒ぎ始めたのです。
多分彼らにしてみたら聖霊がそうさせているのであって、
原初教会の聖霊降臨と同じ現象が、今まさに起こっているのだと感じていると思います。
家に帰って、さっそく今日の体験を例のパワフルな叔母さんにメールで報告しました。
すると返事が、
「世の中真実なものはまれだということ、その教会はカトリックみたいな名前だねetc.」と
返ってきました。
そういえば牧師さん方は私の嫌いな(笑)黒の詰襟の制服を着ていたと思い出しました。
あれローマンカラーって言うんでしたっけ?
教会の雰囲気もステンドグラスを取り入れたり、なんだか若干カトリックっぽかったかも。
カトリックでカリスマ的・・・
あっ、これはリベラ氏の言っているプロテスタントを攪乱させるカリスマ運動の一環として
イエズス会かどこかのカトリック側の工作員が作り上げた教会だ!
とピーンときました。
まさか最近自分が調べていたことの実例を目の当たりにするなんて、思ってもいませんでした。
あの客員牧師はどこで研修を受けて来たんだろう。
誰に按手してもらったんだろう。
みんなして「我はー主なり」と言っていた「主」というのは実は悪魔のことじゃないのか。
それを唱えることによって、呼んではならないものを呼んでしまっているんじゃないか。
とふと思いました。
その客員牧師は自分のことを「田舎牧師」で話が下手だと恥ずかしそうに言っていましたが、
私は神様田舎牧師の方が喜んで下さるよ、と思いました。
洗練されたものを良しとするような風潮が教会にも蔓延して、
朴訥なものを恥ずかしいと感じるようになってしまったのでしょうか。
客員牧師は癒しについてもお説教の中で強調していましたが、
もし自分のはくを付けるために癒す力を欲しいと思ったりしたら、
悪魔の罠に引っかかってしまうと思います。
多分そこらへんも彼らの行く神学校で、そう考えるように巧妙に誘導されてしまうのでしょう。
客員じゃない方の牧師さんはもう少しましに見えたのですが、
彼も礼拝中人格が入れ替わってしまうのでしょうか?
こんなの真実じゃない!という心の奥底の声に気づいてくれるといいのですが。
あれ、自分が言うと高慢か?!
近所の教会はあと2つありますが、今度と来週の日曜日に見学してくるつもりです。
どちらとも普通の教会であるよう願います。
いや自分が普通であるよう願う方が先か(笑)
(つづく)