天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

明けましておめでとうございます

このブログを始めてまる5年経ったんですね。
飽きっぽい自分がよく続いたと思います。

霊的な分野に興味があるので、多分にオカルトっぽい分野に傾いておりますが、
時々読んで下さっている方に感謝します。

アルベルトシリーズを全部訳すかなと思い始めているので、
「The Froce」が終わっても、まだまだ続けていく予定です。

今回はそれとは全然関係ありませんが、
「迷い羊仏教の神殿に潜入する」の巻です。

さて、31日と1日は友人の所へ遊びに行っていたのですが、
晦日に人生初の除夜の鐘をついてきましたよ。

テレビを見ているだけなんてつまらないなあと思っていたのですが、
地域のお寺で、除夜の鐘と甘酒と蕎麦のふるまいがあるとの情報を掴みました。

いや、本当は地方の教会の元旦礼拝に
友人達を誘いたかったのですが、調べたらどこもやっていなかったのです。

チベットの僧院を旅したイリオンは大探検家ですが、
せこい冒険が好きな自分としてはちょっと面白そうだと思いました。

お寺って、5~6歳位の時祖母について納骨堂とかを
見に行った記憶がある位で、それ以外行った記憶がありませんでした。

このお寺では年越しの「法要」なるものがあるらしく、
既に沢山の人が広い仏殿に並んで座っていました。

恐る恐る入ろうとすると、
若いお坊さんに蓮の形の紙を渡されました。

「何これなんかのお呪い?」

と気持ち悪がりながら、受け取った胡散臭いその紙には、
真ん中に「48」とだけ書いてありました。
(これは後で除夜の鐘をつく順番と判明しました)

座っていると、頼みもしないのにお焼香セットが回されてきて、
ちょっと焦りました。

友人たちはお焼香をして合掌しましたが、自分はスルーさせてもらいました。

法要を傍観するつもりでいたのに、気づいたら
参加させられるハメになってしまいました。

読経が始まると、ところどころで「合掌!」とか合図の言葉があって、
皆がそれを一斉にやると、なんだか逃げ出したい気分になりました。

いつ終わるとも分からなかった読経も、意外とあっさり終わり、
次は「念仏唱和!」とか何とかいう掛け声と共に、皆一斉に
「ナンマンダーナンマンダー」と唱え始めました。

お坊さんじゃなくて、一般信徒がこれを唱えていることに
何故か軽いショックを受けました。
これってサンスクリット語の呪文なんだよな…

そして極めつけは、
「~~の歌を歌いましょう」
と、何かのテーマソングを現代調の曲に合わせて歌い始めました。

「あー仏教界も現代化をはかっているんだ。若者のお寺離れが進んでいるのかな?」
と思いました。

そして最後は一番偉そうなお坊さんが出てきて、
説法を始めました。

話を聞いていると、どうやらここのお寺は
浄土真宗で、親鸞を崇めているらしいとわかりました。
親鸞の絵が描かれた掛け軸も、拝殿の奥の方に掛かっていました。

話の中で、安穏、安穏、という言葉を何度もくり返していました。
ここ数年は日本は激動の時代が続いていますからね。

他にもすがることの重要性について説いていました。

キリスト教の牧師と違い(笑)、要点がうまくまとめられたお話は、
10分もたたずに終わりました。

「なんてあっさりしているんだ!」
と思いましたが、同時にこれでは信者さんはもの足りないだろうとも思いました。

本業のお坊さん達は色々勉強しているのでしょうが、
信者さん達は自由に人生の質問などを、お坊さん達にできるのだろうかと思いました。

法要が終わると、最後は除夜の鐘をつきに行って、
私の社会見学は終わりました。
(実はこの後もう一軒お寺に行って、そこでも鐘をついてきた)

前の日にサンダー・シングの本を読んでいて、こういう一節がありました。

「自分の宗教を熱烈に信奉し、キリスト教に敵対する立場に立つ多くの人々の中にさえ、キリストの影響が色濃くみえるのは注目すべきことだ。」

親鸞も確かキリスト教の影響を受けているんじゃなかったんでしたっけ?

今回の潜入だけではそれは見えませんでしたが、
ちょっと親鸞に興味がわきました。

エス様は33歳でイスラエルに戻る前に、何年もアジアの地方で過ごされていましたが、
各地の宗教体の中に積極的に入っていかれて、そこで教えを説かれたと読んだことがあります。

なので、これが本当のことだとすれば
エス様の教えの断片が各宗教に残っていても不思議ではないんですよね。

これがイエス様がまかれた御言葉の種で、ヒンズー教でも仏教でも、
後の時代に、彼らの教えの中に秘かに大きく発芽することになったんでしょうね。