天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

大患難時代

タイトルで釣った感がありますが、残念ながら今回は大患難に関する自分の考察です。

キリスト教会に行っていた時に、周りのクリスチャンたちが、皆何気にすごい経験をした人たちばかりだということに気づきました。親に捨てられたとか、女郎屋(今は何と言う?)に売られたとか・・・。みんな大患難を通り抜けてきた人達ばかりだ、と思ったものです。

よく知られているのは、三浦綾子さんの「病気のデパート」の話かもしれません。若い時の肺結核から始まり、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸がん、パーキンソン病など、ありとあらゆる難病を経験したすさまじい人生を送られました。しかしその一方で、人々の心を揺り動かす素晴らしい作品を次々と生み出してこられた訳です(実は一冊も読んでいない)。

綾子さんの病の苦しみが、多くの人々の心に語りかける良い作品を生み出させ、その目を神の方に向けさせる役目を果たして来たのでしょう。

聖書のイエス様の言葉に、「この人の目が見えないのは、先祖や両親のせいでもなく、本人のせいでもなく、神の業が現れるためである。」という言葉があります。旧約聖書では、律法に違反すると呪いがかかるとはっきり書いているにも関わらずです。この謎掛けみたいな言葉があまり好きでなく、仏教のように、「お前のその障害は因果応報だ!」と言ってくれた方が、よっぽどすっきりするのにと思ったものです。いまいち腑に落ちず、「イエス様の教えはやっぱり高級だよな。」と無理矢理自分を納得させていました。

しかし今は思うのです。神の業が現れるためには、人はかくも苦しまなければならないのだと。「神の業」とは何のことを言うのでしょうか。それを見ると、皆がアッと驚くような凄さがある、そこに神がいる、これは神の仕業だと分かる、これは普通ではない、などということではないでしょうか。

私の好きな写真家に、山本昌男さんという方がいるのですが、この方の作品を見ると、明らかに他の人とは違う、精神の深みや、研ぎ澄まされた美しさ、丁寧さを感じます。それを生み出す力はどこから来ているのかと思っていましたが、彼のインタビューを聞いていて分かりました。「自分は病んでいる、だからそれを癒したくて作品を作っている。」

三浦綾子さんの人生は大患難そのもの、山本昌男さんの人生もまた、患難の連続だったと想像します。しかし、二人とも多く苦しむことによって、良いものが内から吹き出し、人を感動させるまでの作品を生み出しているのです。これがきっと「神の業」なのだと思います。

自分の患難の例で言えば、もの心ついた時から言い知れぬ不安に苛まれており、自分の存在自体がいつも大きく揺らいでいました。しかも家族全体にも、全てが無に帰すような、原子爆弾をくらったような出来事が起こり、まさに大患難、天地がひっくり返るような経験をしました。当時の自分の写真を見ると、顔に死相が出ているように見えます。自殺願望も幼い頃から20代後半までしつこく付き纏っていました。恐らく悪い霊を何匹かくっ付けて、一緒に生活していたのだと思います。

救いを求める人間を神様は見放さず、これらのことから少しずつ解放して下さいました。小学校の中学年位までは、布団の中でダンゴムシのように、いつもしっかりと体を丸めて寝ていたと思います。きっと自分の存在が散り散りにならないように、そうしていたのでしょう。それが、今では毎日仰向けになり、大の字になって寝ています。このような姿で寝ることができる日が来るとは思っていませんでした。これは自分の心と存在が、大きく解放されたことの証だと思っています。まさしく大患難を通り抜けることによって、良いものが吹き出した訳です。今感じているこの深い平安は、人生の大半を、心がいつもザバーンという荒海の状態で過ごしてきた自分にとっては、何よりも変え難いものです。

そんな訳で、聖書の黙示録に出てくる患難のことは知っていますが、それに対する恐怖心がまるでありません。「何としても大患難を避けよう!」と思っている人達は、きっと人生の大患難を経験したことがないのだと思います。イエス様のおられる天国の住人になるには、現代人にとってはハードルが高く、もはや大患難という強度のイベントを通さないと、霊的に到達できない仕組みになっているのだと思います。なので、もし神様が我々に悪い者を通して患難を与えられるのなら、それは我々の中から良いものを吹き出させるため、生まれ変わらせるための神の業です。我々はそんなに清くないし、天国に入るには、心が火で焼かれる必要があるのです。

「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を子羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座についておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる子羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(黙示録7章14〜17節)