天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

ヤコブ対パウロ(2)

ヘブライ語聖書がギリシャ語に翻訳されたとき、それはセプトゥアギンタ(註:七十人訳ギリシア語聖書)と呼ばれました。ユダヤ人学者は、「セプトゥアギンタは、非常に悪い翻訳者によって翻訳された」「非常にしばしばその翻訳者は、自分が何を読んでいるのかさえ分からず、一語一語翻訳することによって、無意味な文章を作り出した 」と認めています(ネヘミヤ・ゴードン「ヘブライ語のイシュア対ギリシャ語のイエス」(Jerusalem: 2006) 33~34ページ)。

ヤコブがパウロを責めるのに使った例として、パウロは紀元前247年のセプトゥアギンタのギリシャ語訳にある、創世記15:6の非常にあいまいな訳に惑わされ、それを二度引用したことがあります(ローマ4:3; ガラテヤ3:6.)。

パウロは何度も何度もセプトゥアギンタから引用していますが、その都度翻訳が非常に曖昧で、誤解を招くとみなされている箇所から引用しているのです。

ある解説者は、パウロがセプトゥアギンタのこれらの誤りを飲んだと言って、パウロに有利な解釈を与えていますが、私は、パウロが自分の福音に信憑性を持たせるために、イエスやエルサレムの第一教会の教えと矛盾することを十分承知の上、意図的にこれらの聖句を引用したのではないかと思っています。

ローマ人への手紙の3章と4章にある、アブラハムはその信仰のみによって義とされたという、パウロの反対の論旨において、パウロは、アブラハムが信じるというステップのみによって、罪人から義とされる聖人に変えられたことを暗示することで、アブラハムが信じるすべての者の父となったことを私たちに見せたいのです。(ローマ3:9-10「すべての人は罪を犯した」、ローマ4:1-5、10-18「アブラハムはまず信仰によって義とされ、それによってすべての信じる者の父となった」参照)。

しかし、パウロの考えは、聖書から明らかに示唆されていること、すなわち、アブラハムが創世記15:6より前に、義とされていたということと完全に矛盾しています。

パウロが創世記15:6を間違って読んだため、信仰だけによる救い(ローマ4:4-6)の教えを導き出したように、ヤコブが創世記15:6の読み方を正したために、パウロの「信仰のみ」の教義が訂正されたのです。

ヤコブは同じ創世記の文脈で、行いのない信仰は義とされず、救われないと言っています。ヤコブはヤコブ2:14で、パウロの教えと正反対のことを正確に言っているのです。

パウロはどのようにしてヤコブと反対の見解を確立したのでしょうか。詩篇32:1-2の脈絡のない引用と、創世記15:6の誤った見解のほかに、パウロの「信仰だけ」による教義には、もう一つ証拠となる文章がありました。それはハバククからの引用です。

パウロは、この箇所が、律法に忠実に生きるという我慢をすることなく、一度だけの信仰で救われることを立証している、と主張したのです。パウロはハバクク2:4を引用していましたが、彼はまたセプトゥアギンタの誤りのある箇所から引用しています。そのため、パウロは完全に誤った解釈をしてしまったのです。

パウロはローマ人への手紙1章17節と、ガラテヤ人への手紙3章11節で、次のように述べています。

ハバクク2:4に「正しい者は信仰によって生きる」と書かれているように、そこには信仰から信仰への神の義が明らかにされているからです(ローマ1:17)。

 しかし、神の目には、律法によって義とされる者はいないことは明らかです。(ガラテヤ3:11 KJV)

しかし、セプトゥアギンタは、ヘブライ語の原文をギリシャ語に翻訳する際に間違いを犯しました。ハバククのキーワードは、信仰(ギリシャ語ではピスティス)ではなく、忠実(ヘブライ語ではエムナ)です。

また、パウロはセプトゥアギンタとヘブライ語の両方に現れる、重要な単語を省いています。それは信仰心の前の「彼の」という単語です。ハバクク2:4には、次のように書かれています。

「しかし、正しい者は、彼の忠実さによって生きる」。

この二つの訂正は、パウロが意図した解釈を覆すものです。これらの欠落した部分を修復することによって、パウロが証明しようとしたこととは逆のことが証明されるのです。

ヤコブ2:19で、ヤコブはさらにパウロの教義に対して、「悪魔は神を信じ」ているが、それによって救われたのではないと論証します。ヤコブはさらに、信仰を完全にするためには、精神的な同意に加えて、行いが必要であると述べています。これはハバククの言っていることとは別の角度からです。ヤコブは、そのような行いのない信仰は、悪魔が持っている信仰と同じであると述べています。それは何か本質的なものを欠いているのです。

ヤコブは、福音書の中の出来事を思い出しています。これらの出来事は、イエスが神であるとかメシアであるとかといった単なる知的な受け入れは、それだけで終わるとしたら、何の意味もないことを証明しています。

福音書の記述の中に、イエスの神性を認めた悪魔がいたことを思い出してください。イエスが彼らの前に現れたとき、彼らは「私たちはあなたが誰であるか知っています、神の聖なる方です」(マルコ1:24、ルカ4:34参照)と言いました。彼らはユダヤ人があまりにも盲目だったこと、イエス・キリストの神性と同時に、人間性を完全に認めました。

しかし、悪魔はこのことを認めても、決して告白しませんでした。彼らは決してイエスを信用しませんでした。ハバククが語っている人々のように、彼らはイエスに身を捧げず、この真理によって生きることもしませんでした。このことは、パウロの無効性を示しています。

パウロは、もし私たちがイエスの復活を信じ、イエスは主であると信じるなら、私たちは救われると言いました(ローマ10:9)。悪魔たちはこの二つの事実を信じているだけでなく、個人的にそれについて知識があるので、パウロの救いのテストに合格していることになるのです。ヤコブは、神についての真理に悪魔が精神的に同意するだけでは、あなたを救うのと同じように、悪魔を救うことはできないと言って、この方式を嘲笑しています。パウロは精神的な同意があなたを救うと強調しましたが、ヤコブはこの考え方が間違っていると言っています。

(おわり)

The Trial of Paul by the Church at Ephesus (pocketoz.com.au) より

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(管理人)

先日家庭礼拝でパウロの偽使徒性について皆で学びました。母によると、昔パウロが出てくる映画を見ていたら、ヤコブとパウロが神殿で言い争いになって、パウロが怒ってヤコブを階段から突き落とすというシーンがあったそうです。

エリエナイさんのHPの「偽預言者・偽教師パウロ」の所には、以下のように書いてあります。

「新約聖書が公式に正典化される100年程前、ペトロとその弟子クレメンスによる2人の書簡をまとめた「講和」と、紀元150年頃に書かれたとされる「再会」という、2巻から成る「クレメンス文書」に、ルカの『使徒言行録』とは異なる伝承が残されている。その衝撃的な内容のため、キリスト教会はのちにこれを偽書とし、『偽クレメンス文書』と名付けた。

その中に、イエスの弟で後継者であったヤコブが「敵」と呼ばれる「ある人物」と神殿内で激しい口論の末、その「敵」がヤコブを神殿の階段の下へ突き飛ばしたことが記録されている。ヤコブは死ななかったが、ひどい怪我をしたので、支持者たちがたちまち飛んできて、彼を安全な場所へ運んだ。この「敵」がタルソスのサウルにほかならないことが後に明らかになる。また、この文書では新約聖書の「ペトロの手紙Ⅱ」でペトロが書いている「偽預言者」をパウロとしている。」キリスト教の創始者パウロ (oo7.jp)

母の見た映画には、このようなクレメンス文書などに登場する、パウロに関するエピソードが反映されていたのでしょう。パウロがいかに猛々しい性格を有しており、12弟子達を見下していたかを示すような出来事です。

パウロは、当時の哲学や霊学といった最高の学問を学んでおり、それを駆使して教えていたと思われ、西側にいる人々にとっては、田舎のガリラヤから来た元漁師達が教える教えよりも、遥かに洗練されたものとして映ったことでしょう。パウロ自身もそのように自覚していたと思います。今日の私たちでもそのように思うわけですから。

パウロはある種の天的な啓示を受けていたと聖書から読み取れるので、かなりの確信をもって説いていたことでしょう。自分としてはこの「天的啓示」というのが大問題だと思うのですが・・・

行動力についても、イエスの弟子達を凌駕するものがあったでしょう。パウロのこの勢いは、イグナチウス・ロヨラという、歴史に名を残す力強い反キリスト者が、当時のキリスト教世界の中から浮かび上がって来た姿を彷彿とさせます。

ちなみに、スウェーデンボルグの霊界探訪によると、ルターもまた、パウロと同じように、地獄の住人であるのを見たとのことです。パウロやルターの大きな働きがきっかけとなって、神の道に引き戻された多くの魂がいたことも事実でしょう。その一方で、彼らのような宗教家が、自分の教えが神の御心に反するものだと心の奥底で感じていても、なおも自分の掴んでいるものの方が正しいと言い張る場合、死後黄泉のような低い場所に降下していくことを思わされます。

「聖書は一言一句、誤りのない神からの啓示」という巧妙なまやかしの号令を、ローマ側が聖書内に仕込むことによって、聖書に書いてある内容を批判することを封じてしまっています(神様ご自身もこのような欺瞞があることについて、事細かに説明されないのがミソでしょうか?)。

パウロを尊敬する人の多いプロテスタントの教会で、パウロが反キリスト的だと明言することは、指導者側にとって到底許しがたいことのはずです。ですが、近年どんどん歪んだものが直されていっているので、今後日本でもこの問題について、徐々にクローズアップされてくるのではないかと予想しています。